新聞の偏向報道なんて全く問題じゃないと思うんですけど。いやガチで。

先日の記事に関連させて。

仮眠室の冷房が薄い浴衣一枚で過ごすには少々寒かったようで、軽く頭が痛かったが落ち着いた。静岡新聞読む。photo © 2008 Kuru man | more info (via: Wylio)

新聞も共感装置!
小説は僕たちを安心させるための共感の装置だみたいなことを言いましたが、エンタメと言われる小説やら映画だけじゃなくて、「新聞」もその役割を担っているっていうのを授業で習った。それで僕は確信を深めた。
新聞は、僕たち大衆を共感で安心させるためにあるということ。
現代を生きている僕たちは不安だけど、なにか事件が起こって、新聞がそれについて報じる。「この事件はこういう風に、見ましょう」と(共通した「語るべきこと」の提供です)。でもそれって、都市化した社会において、共通の事象について共通の見解を持っておくっていう必要から生じた至極まっとうなジャーナリズムの役割。新聞がないと僕たちは共通の見解がない人を周りに置くことになって、「耐えがたい苦痛」を感じる。都市とは、畢竟「脳」とは、そういう構造を持っているのかもしれない。
重要なのは、新聞が、そういう機能を持った媒体だということを僕たちが認識しておくこと。新聞は、単なる通信社とは違うんです。



偏向報道は全く問題でない
ところで新聞に関して「偏向報道だ」なんて言われるけど、本当に公明正大な新聞なんて、ない。物事(事実)に対する見方なんて、絶対にバイアスはかかってしまうもので、それを文字とかで報道するとなれば、なおさらバイアスはかかってしまう。「正しい見方」なんてない。だから、偏向報道は原理として避けることはできない。それなら、なぜ新聞の偏向報道が問題となっているかというと、それは僕が思うに新聞がさも自らが公正に報じているかのような態度をとっているからだ。
つまり、偏向報道しかできないくせに、偏向報道していないかのように振舞っているのが悪いのだ。例えば、選挙報道ではアメリカの新聞社と違って「自分のところの新聞社は〇〇候補を応援します」っていうのを日本の新聞社はやらない。本当にやるべきなのは「自分たちの新聞社ではこういう主義信条なので、〇〇候補のこういう政策を評価して、〇〇候補を応援します」という態度だ。
本当に謙虚に、自分には公正な見方なんてできないって分かっていたら、自然とそういう態度になるはず。「自分たちの〇〇新聞はこういう見方をしました」という風に、社会に提案するのだ。むしろそれでこそ「社会の木鐸」であると感じるのは僕だけではないはず。



僕たちは偏向報道にどう向き合うか
新聞社は、主義主張や信条に基づいて、例えば「〇〇候補を応援します」であったり、「この殺人事件では〇〇が問題です」とか。いろいろな新聞社*1が、いろんな主義主張をすればいい。
じゃあ、僕たちに求められるのはなにかというと、「新聞社の主義主張を理解するリテラシー」であり、「いろいろな主義主張を組み合わせて自分の(ためになる)判断をする力」こと。

話はそれますが、本当に人が、自由に判断/選択できるような素地をつくるのが、教育の仕事でしょう。そして、それをすべて家庭に担わせるのでなく、「社会の役割」として捉えられませんか。西欧では大学が無料です。詳しくは 田端博邦 『幸せになる資本主義』



偏向報道ができなくなる記者クラブはやっぱりダメな存在
新聞社たちジャーナリストがいろいろな主義主張をするのが必要という意味で、僕は偏向報道を肯定した。
でもどう考えてもやっぱりダメなのは、「情報元」を制限する記者クラブ。判断するための材料を制限する理由がない。
詳しくは、「知る権利」を求め闘う上杉隆@uesugitakashi)さんの『記者クラブ崩壊 新聞・テレビとの200日戦争』がお手軽



世論調査は選挙軽視
あと、新聞の世論調査、良く解らんけど、「国民の声」なんて、選挙で十分じゃない?
だから新聞社の政治家に対する「これは国民の声ですよ、どうですか?」という圧力は不要。新聞社も「国民の声」なんて借りずにおのれの言説で政治家を口説いてみせよ。
だから政治家は世論調査なんて参考程度にするくらいでいいよ。現状そうなのかもしれないけど、そうは見えないから。


Written by 人声人語@YMKjp (Twilog)

*1:別に新聞社に限らず、TVでもアルファブロガーでもいい