殖産興業のはじまり(平成から見つめ直す明治)

〓kubo Toshimichi


大久保利通の殖産興業に関する建議』*1を中心に明治時代の殖産興業を振り返ってみよう。明治時代初期は、時代を読む必要性が高まっていた。そうした「時代を読む必要性」と、その状況を柔軟に対応した大久保と、その周りの維新官僚たち(みな、非常に若かった)をみていきたいと思う。

この建議の主意として以下の2文を引用しよう。

  • おおよそ国の強弱は人民の貧富により人民の貧富は物産の多寡にかかる
  • 物産の多寡は…その源頭を尋ねるにいまだかつて政府政官の誘導奨励の力によらさるなし


文意はおおよそ以下のとおり。

  • 地形や自然条件が類似するイギリスをモデルとして勧業殖産をすすめよう
  • イギリスのように工業を奨励すれば物産が増殖し工業立国へと導かれる
  • 工部省路線の官業重視ではなく民業重視でやっていくべき


大久保のこの建議によって明治政府の勧業政策が本格化していくこととなる。
大久保はその強力なリーダーシップをもとに「民間重視」を提唱し、従来の官業中心の見なおしをはかったのである。



帝国主義」忍び寄る軍靴の足音
大久保はこの建議のまえに、岩倉具視全権のもと遣欧使節団としてヨーロッパ文明をつぶさに見聞していた(写真)。そして、もう200年も前に産業革命を迎え工業国となっているイギリスを手本にしようと建議したのである。当時は日本はもとよりフランスも農業国であり、まず目指すべきはイギリスだった。そして大久保たちは岩倉使節団アラビア半島などで半植民地状態となっているエジプトやトルコ、インドなどをみて圧倒的な帝国主義を感じ取り、反面教師としたのである。ここで提唱されたのが「富国強兵・殖産興業」のスローガンである。


Iwakura mission members



最大の実力者大久保利通
年表を見てみよう。

当時大久保はすでに維新政権の最大の実力者となっていた。政権内の敵対勢力を1874年の明治六年政変などで排除していたのである。また、明治初期は江戸時代からの旧来の藩閥意識に基づいた反抗勢力(主に士族階級)がいた。年表中の「西南戦争」はそれら士族階級が起こしたものである。西南戦争は日本の最後の内戦といわれており、これをもって日本国内は国家統一がいちおう完成する。
本題の殖産興業に関しては、1873年に地租改正が行われ、政府の脆弱な財政への対応もめどが立ったかっこうとなっている。また、工部省によってすでに産業のインフラは整えられつつあった(西洋式の灯台、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信など)。
ここで特記しておきたいことがある。維新政権の中心メンバーの若さだ。大久保利通木戸孝允井上馨松方正義福沢諭吉五代友厚大隈重信は30代。渋沢栄一伊藤博文は20代。年長の岩倉具視すら働き盛りの40代である。この若さがあってこその、急速な「富国強兵・殖産興業」という変化に柔軟に対応できたのであろう。"平成の開国"TPPへあててこのエントリーを記しているが、現内閣の「老い」、よく言えば「成熟」をひしひしと感じる。現内閣最年少の蓮舫議員で42歳なのだから。



民間主導の殖産興業政策
先述の大久保の建議以降、民間主導の殖産興業政策がすすむこととなる。日本は製糸業などを経てノウハウを固め、重厚長大な産業へと"発展"していく。トヨタ自動車の創業が「豊田自動織機製作所」であることもこの製糸業からの流れを感じることができる。三井、三菱といった政商資本が台頭し始めるのもこのころである。そしてこのころの産業の体制がのちの日本の政治構造や民主主義の質へ与えた影響は大きい。昭和初期の軍国主義もこの一連の流れとしてとらえられるだろう。



Written by 若い政府を支持します@YMKjp (Twilog)



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*1:(『日本近現代思想大系8 経済思想』, 岩波書店, 1988年, pp.16-19)