金融業界の異常な高給 または私は如何にして手数料を下げてくれと思うようになったか

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2ちゃんねらーがつくるような就職偏差値番付にもトップで登場するのは、外資系金融と、外資系コンサルの2本立てが恒例となっている。
これらは主に「高給」という視点からこのような番付結果になっていると思われるが、そもそもなぜ外資系金融・コンサルは高給なのだろうか?
非常に大まかになるが「近代化」という文脈で探ってみたい。



金融業界の立地は好条件
世界は金融業界を「なんとなく許されるキャラ」としてみなしている。金融業界の異常な高給は「情報の非対称性」から生み出されているからこそのものだ。ゴールドマン・サックスに代表されるような金融工学による収益のブラックボックス化がその最たるものだろう。本来であればいわゆる外資系金融の異常な高給は回りまわって企業や個人の手数料などから払われているわけであるのだから、もっと追求されていいはずだ。経済評論家の山崎元さんはこの事態を「立地が良い」と表現している。金融業界に対して僕たちは端的に「手数料の払い過ぎ」と指摘していいのだ。ネット証券やネット生保などによって手数料が下がってきているが、この流れを保守的な思考で「大手のほうが安心だから」と逆行するような態度をとってしまうことは罪深いと僕なんかは思ってしまう。

>参考: 山崎元のビジネス羅針盤 > 金融への就職をどう考えるか



金融業界で高給を得ること自体は一向に構わないと思う。お金はあくまでツールであって敵視してしまうのは筋違いであり、恨むべくはそれを扱う側の人間であり、さらに言えば「罪を憎んで人を憎まず」、あくまで謙虚になぜ人はお金に対してそうなってしまうのかということを真摯に追究していく姿勢が肝要です。むしろ個人的にはビートたけしが言っていた「一旦大金をもてばそのくだらなさがわかる」的発言になるほどと思って、高給を得ること自体には肯定的だったりする。
しかし、それはあくまで労働の対価としての賃金の話であり、僕は金融のユーザーとして過剰なサービス対価を払うつもりはなく、そこらへんはぜひ市場システムによって金融業界内の競争が促されることを望みます。

近代シリーズエントリー


※ちなみにエントリーのタイトルの元ネタはスタンリー・キューブリック監督『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964)でオモシロスなので、未見の方はぜひ


「お金の使い手」があらわれた!@YMKjp